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福田康夫首相の領収書あて先書き換えは、違法ではない。

領収書のあて先の記入は、領収書の効力と何ら関係ない。あて先の記入のないレシートでも、領収書として有効であり、税務署の調査でも有効である。あて先を自分で記入しても適法である。税務署に問い合わせても、領収書の作成にあて先の記入ないものでも、有効でありまた当然違法ではないと回答を受けている。もし、違法とか無効になるとの回答をする税務署員がいれば、彼が間違っている。

福田事務所は、100枚以上の領収書のあて先を書き換えたそうであるが(2007年10月3日22時7分 読売新聞YOMIURI ONLINE)、無駄なことであった。

そもそも領収書のあて先は、お金を支払った者が、自由に書かせられるものである。世の中には、バカがもっともらしく発言する。税務署が調べるのは、領収書のあて先ではない。何を買ったのか、本当に買ったのかを調べるのである。そして、それが事業に関連する物であるか、サービスであるかをチェックするのである。この関連性の判断が、税務署員と事業者で分かれる。関連するかどうかは非常にむつかしい問題であり、硬直的に判断されるべきではない。

また、思想の自由や企業情報の秘匿の観点から、領収書のあて先を空欄にしての発行を認めなければならない。特にコンピュータの発達した現代では、その必要性が強く求められる。領収書のあて先の記入を法的に要求すると、簡単に誰が何を買ったか調べられる。通信販売の怖さが論じられていないようであるが、売買における匿名性は自由社会の非常に重要な成立要件である。インターネットの便所の落書き的な品のない匿名書込とは本質が異なる。被差別部落名簿の購入者(企業)が調べられて、購入者(企業)が糾弾されたことがある。私は非常に危惧を感じた。60年前を思い出してもらいたい。マルクス主義の本が書棚にあるか否か特高が捜査した。ソビエトの歴史が証明しているように、”左翼”は、国民監視の体質が本質的である全体主義なのであろうか。(少々言葉が不足していたようである。私は、戦前の天皇体制を共産主義と考えているので、いわゆる共産主義を弾圧した特高の活動は、スターリンの政敵の粛清と同じと理解している。共産主義者同士の粛清である。―加筆)

広島でも、弁護士と税理士の資格を持つNなる者が、顧問をしているF書店にあて先を空欄にした領収書の発行を禁じている。彼は、非常にパターナリズム的な人物なのであろうが、危険なことである。間違った指導をする前に、顧問先が起訴猶予処分を受けないような企業活動をするようアドバイスをするべきである。



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以下、平成19年10月9日加筆
空白にした領収書のあて先を領収書受取人が記入すること、およびあて先を訂正することを文書偽造とする意見がインターネットで散見される。彼らは根本的に間違っている。そもそも、領収書に記入されるあて先の氏名(名称)は、領収書を受け取る方が指示し、そのとおりに領収書発行者が書くのである。お金の支払人が、あて先の名称を間違って指示すれば、自由に書き換えを要求できるはずである。法務局の登記ですら、錯誤の登記は訂正できる。登記官が間違った登記をして補正することもかなりある。私は、業として登記行為をしているわけではないが、私が個人として、あるいは理事長として本人登記をしたときに登記官が間違った登記をしたことは、一度だけではない。

領収書あて先の問題は、白地の記入もあて先の訂正も領収書発行者が受取人に委任していると見るのが適当であると考える。1枚の領収書の重複使用とは全く異なることに注意しなければならない。小切手や手形のような有価証券ですら白地での発行は、有効と認められている。金額の白地は大きな危険性が伴うので、大学の法学部や商学部では有価証券の講義で、そのことを真っ先に教える。先日付や日付記入のない小切手は、呈示期間を延長する目的で実務では普通に行われている。先日付小切手でも提示されれば支払い義務があるが、引落決済日を先にしたいときに実務上良く利用されている。犯罪行為や不正行為ではない。ただし、手形のあて先は、自由には訂正できない。なぜか、それは、これから決済(支払い)が行われるからである。だから、手形では、あて先を変更する機能を制度的に定めている。それは、裏書である。

あて名の白地や訂正を、税務署での有効性に関連して議論する者がいる。専門家に多いようである。あて先自体がどのようにでも書かせられるのに、かかる議論がもっともらしくされるのが理解できない。税務署の関心は、先に指摘したようにあて先ではない。それよりも、売買の匿名確保の重要性は、内心の自由、信教の自由、政治信条の自由の確保の観点から論ずるべきであると思う。



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by IDpureland | 2007-10-08 23:36
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