人気ブログランキング | 話題のタグを見る

沖和史部長の説明責任

一昨年の僧侶研修のテーマについて述べたい。この僧侶研修は、西本願寺教団で一斉に始められて相当年月が経過した。安芸教区においては、差別法名と過去帳の差別記載に限定して毎年組単位で行われてきた。他組はどのように行われているのか知らないが、広陵東組では私が「差別案内状」について教区から出向してくる三者懇のメンバーに過激に議論を挑むので、昨年12月の広陵東組僧侶研修には三者懇から誰も来なくなった。

昨年12月は私が司会をしており、ある意味残念であった。広島別院(教務所)からは斉藤英明安芸教区基推委相談員が出席していた。

一昨年、沖和史安芸教区基幹運動推進委員会同朋部会三者懇部長のお膝もとの佐伯奥組が僧侶研修会を「靖国問題」をテーマにして開催した。私は非常に驚いた。安芸教区基幹運動推進委員会もっと特定すれば、同朋三者懇がテーマを限定していると理解していたからである。斉藤英明相談員も同様にテーマは限定されていると理解していた。

佐伯奥組が靖国をテーマに僧侶研修会を開催したことはダマシと考える。もし、沖部長がテーマを設定したのであれば、事前に教区内の全組にテーマを差別法名に限定しなくて良いとメッセージを送るべきであろう。もし、佐伯奥組が沖部長に反発してテーマを靖国にしたのであれば、事後的にでもやはり説明が必要であろう。

沖部長は、事前にも事後にも説明していない。彼には説明責任という感覚はないのであろうか。



【関連サイト】
安芸ねっと
blogナビ
BBS安芸ねっとpureland
exblog安芸ねっと(差別問題)
はてなBlog安芸ねっと(宗教問題を気ままに)
blog安芸ねっとwebry(その他のイシュー)
# by IDpureland | 2008-07-18 18:50

人権ごっこ

以下の文章は、昨年の僧侶研修後書いたが公表を躊躇していた。今年(平成19年)の僧侶研修会は、12月20日にある。今年の教区よりの出向者は、菅瀬融爾(教蓮寺・沼田組)さんである。別院の斉藤英明さんの名前は、資料に見当たらない。先日、ある懇親会で彼に会った。確認すると出席すると返事をしていた。何であの案内状を差別文書としたのかと問うと、彼一人が別の意見を言うのは難しいと答えた。彼はなかなか誠実な男であるが、日本では一人ひとりが自分の考えを持ち、一人ひとりが自分の考えを表出するのは困難な社会であるということか。差別問題ではなおさらなのであろう。宗門の基幹運動のような場で、言葉狩りをする愚をおかしてはならない。権力側にたつ人間が、自己を隠して摘発する全体主義・社会主義を許してはならない。
末尾の「僧侶研修会のやり方に対する提案」は、有効と思う。今年は、私が議事進行のようだから、発言が制約されるかもしれない。1年遅れであるが、公表する機会を失うことになるので、今アップすることにした。(平成19年(2007年)12月16日)

________________________________________

平成18年(2006)度の広陵東組僧侶研修会は、平成18年12月19日午後4:00~午後6:00、広島別院で行われた。教区よりの出向者は、城山大賢(報正寺・山県太田組)、藤井聡之(教雲寺・沼田組)、斉藤英明(教区相談員)が予定されていたが、当日になり城山大賢が欠席し代わって菅瀬融爾(教蓮寺・沼田組)が出席した。


【差別問題研修会の実態】

上園恵水前組長は、他組主催のゴルフ大会に、平成18年12月19日の広陵東組僧侶研修会を欠席して参加した。
また、前組長は、同日夜の懇親会に参加し、岸田秀先生僧侶研修会案内状「差別」文書事件(平成15年(2003年)3月12日)について、「まだやっているのか」と発言した。
僧侶研修会を指導しているのは、教区同朋三者懇(部長沖和史)のようであるが、僧侶研修会や差別問題の扱われ方のこのような現実を知っているのであろうか。
基幹運動の闘士の奮闘の結果がこれである。前組長を非難する前に、この現実は彼らが余りにも人間の実相に無知であることを反省しなければならない。沖和史安芸教区同朋三者懇部長の私への書簡を改めて読み返してもらいたい。彼は現実を全く知らない。また、知ろうともしない。
 「上園(上園恵水)さん、日下(日下正実)さんは存じ上げておりませんし、お二人が組内でどのような行動をしていらっしゃるのか存じ上げる立場にありません。したがってお二人の行動は私のとる態度と今は関連するところがありませんし、日下さんが池谷所長の部下であったというお話が去年度に起きたこの件とどのようなかかわりがあるのか、残念ながら理解致しかねます。」(沖和史書簡平成15年(2003年)10月9日)
 ある人物Aと他のBに接点があることが重要であることは常識である。裁判でも公益法人でも株式会社ですら特別の関係の排除が重視される。上司と部下や使用者と雇われ人の関係あるいは親族関係が特殊関係の代表例であることは常識である。愛人関係は微妙である。このような常識を欠く基幹運動の関係者が「信心の社会性」を主張するからブラックジョークであり赤子の手をねじるように真宗僧侶が利用され裏で嘲笑されるのである。
 日下正実(旧姓藤井)氏が問題発生時の副組長であり、上園恵水組長(当時)を補佐する副組長のうちただ一人被差別部落に対する差別文書だと発言した人物であり、池谷亮真氏は教区責任者の輪番(教務所長)である。私は案内状を書いた事実や案内状の文章の改ざんを争っているのではない。安芸教区輪番(教務所長)(中山知見氏と後任池谷亮真氏)と三者懇部長の沖和史氏と「案内状」が差別文書か否かの評価を争っているのである。池谷亮真氏は当事者なのである。権力者として差別の判定を行う立場です。案内状が差別文書でなければ(差別と判定されなければ)糾弾対象にはならない。その判定者池谷亮真氏と日下正実氏の関係が「去年度」に行為が完了している本差別事件とは関係ないというのが沖和史氏の論法なのであろうが、差別か否かを権力者として判定者する池谷亮真氏と上園恵水氏にただ迎合する日下正実氏の関係が「どのようなかかわりがあるのか、残念ながら理解致しかねます。」という沖和史氏の理解は幼稚としか形容の言葉を知らない。しかも沖和史氏は、三者懇部長という権力者なのである。
 宗門は偽善のお面(仮面)ばかりである。きれいごと発言の「人権ごっこ」というべきか。形骸化した信心があふれる宗門の現在の姿か。



________________________________________
【差別を思考停止から救う】

差別問題を取り上げるとき、特に糾弾する側は、社会の現実・状況を十分認識すべきである。「差別」という言葉を聞いただけで、思考停止に陥っているのが僧侶の現実である。「差別」という言葉を気安く使える環境にしなければならない。差別には垂直的、区別には水平的イメージがあり、垂直的イメージのある「差別」が価値的に負とされたのであろう。商品戦略に「商品の差別化」という用語があるが、他社製品より垂直的に勝るという意味であり、普通に使用されるテクニカルタームであるが、昔から使用するたびに差別問題で取り上げられないのを不思議に思っていた。私は、差別も区別も基本的に違いはないと考えている。「差別」「区別」の間にラインを引くから思考停止に陥る。相手により早く差別のレッテルを貼るチャンスばかりうかがっている。「差別」の中にラインを引いて、「許される差別(なされなければならない差別)」と「許されない差別」にカテゴライズするのが、実質的論議をもたらし、「差別」という言葉も拒絶反応を導かなくなると考える。
 運動論としても、僧侶及び僧侶社会は体質的に空想的自慰的偽善的反差別運動に陥るので、それを防止するため僧侶は「一人雇用運動」を実践すべきであると提案した。教区よりの出向者藤井聡之は頷いていたが、首肯なのか機械的反応なのか分からない。彼が同意したのであれば、実践してもらいたい。現在のような僧侶研修に時間を浪費するより生産的である。


【僧侶研修会のやり方に対する提案……研修のたこつぼ化から脱却すべきである】

 差別問題についての僧侶研修会をメンバーが比較的少人数でお互い熟知している組単位でいつも蛸壺的に行うことは、徒党を組むのが習性である僧侶であることを勘案すれば、僧侶研修会のこれまでのやり方の繰り返しは適切なものとは思われない。
 試みとして、自己の所属する組の研修会の出席を条件に、他組の僧侶研修会への参加を認めることを提案したい。前日までに参加申込をさせ、発言を認めるか否かは、受け入れ組に任せればよい。オブザーバー参加であっても、参加者も受け入れ組も得るものが大きいであろう。親戚ネットワークを基軸とする真宗僧侶社会で、お互いを直接認知する機会を普段確保することは、陰湿な中傷を無化し、人材発掘に寄与するであろう。
 このような交流を盛んにすることは、教区全体が活性化するであろう。付随効用として、井の中の蛙状態を原因とする破廉恥漢のボスの発現を防止することができる。安芸教区は、広陵東組から僧侶の閉塞的人間関係が開放されたが、より一層自由で生産的な発言のできる僧侶社会になる。


出席者:中川英尚(浄光寺)、長門義碩(海宝寺)、長門義城(海宝寺)、乗元善昭(善教寺)、乗元明雄(善教寺)、高松秀峰(西向寺)、松尾淳成(専立寺)、井上正晃(正光寺)、潤居秀顕(順教寺)、法山総貫(妙蓮寺)、武田勝道(教西寺)、武田秀道(誓立寺)、大石義行(勝順寺)、三光清子(三光寺)、友国義信(善徳寺)、田中晃敬(進徳寺)、岡部哲信(報徳寺)、古川知行(善通寺)、亀山倫昭(正覚寺)、碓井真行(光明寺)、久保田孝誓(報恩寺)、久保田晃裕(報恩寺)




【関連サイト】
安芸ねっと
blogナビ
BBS安芸ねっとpureland
exblog安芸ねっと(差別問題)
はてなBlog安芸ねっと(宗教問題を気ままに)
blog安芸ねっとwebry(その他のイシュー)
# by IDpureland | 2007-12-16 15:47

福田康夫首相の領収書あて先書き換えは、違法ではない。

領収書のあて先の記入は、領収書の効力と何ら関係ない。あて先の記入のないレシートでも、領収書として有効であり、税務署の調査でも有効である。あて先を自分で記入しても適法である。税務署に問い合わせても、領収書の作成にあて先の記入ないものでも、有効でありまた当然違法ではないと回答を受けている。もし、違法とか無効になるとの回答をする税務署員がいれば、彼が間違っている。

福田事務所は、100枚以上の領収書のあて先を書き換えたそうであるが(2007年10月3日22時7分 読売新聞YOMIURI ONLINE)、無駄なことであった。

そもそも領収書のあて先は、お金を支払った者が、自由に書かせられるものである。世の中には、バカがもっともらしく発言する。税務署が調べるのは、領収書のあて先ではない。何を買ったのか、本当に買ったのかを調べるのである。そして、それが事業に関連する物であるか、サービスであるかをチェックするのである。この関連性の判断が、税務署員と事業者で分かれる。関連するかどうかは非常にむつかしい問題であり、硬直的に判断されるべきではない。

また、思想の自由や企業情報の秘匿の観点から、領収書のあて先を空欄にしての発行を認めなければならない。特にコンピュータの発達した現代では、その必要性が強く求められる。領収書のあて先の記入を法的に要求すると、簡単に誰が何を買ったか調べられる。通信販売の怖さが論じられていないようであるが、売買における匿名性は自由社会の非常に重要な成立要件である。インターネットの便所の落書き的な品のない匿名書込とは本質が異なる。被差別部落名簿の購入者(企業)が調べられて、購入者(企業)が糾弾されたことがある。私は非常に危惧を感じた。60年前を思い出してもらいたい。マルクス主義の本が書棚にあるか否か特高が捜査した。ソビエトの歴史が証明しているように、”左翼”は、国民監視の体質が本質的である全体主義なのであろうか。(少々言葉が不足していたようである。私は、戦前の天皇体制を共産主義と考えているので、いわゆる共産主義を弾圧した特高の活動は、スターリンの政敵の粛清と同じと理解している。共産主義者同士の粛清である。―加筆)

広島でも、弁護士と税理士の資格を持つNなる者が、顧問をしているF書店にあて先を空欄にした領収書の発行を禁じている。彼は、非常にパターナリズム的な人物なのであろうが、危険なことである。間違った指導をする前に、顧問先が起訴猶予処分を受けないような企業活動をするようアドバイスをするべきである。



--------------------------------------------------------------------------------

以下、平成19年10月9日加筆
空白にした領収書のあて先を領収書受取人が記入すること、およびあて先を訂正することを文書偽造とする意見がインターネットで散見される。彼らは根本的に間違っている。そもそも、領収書に記入されるあて先の氏名(名称)は、領収書を受け取る方が指示し、そのとおりに領収書発行者が書くのである。お金の支払人が、あて先の名称を間違って指示すれば、自由に書き換えを要求できるはずである。法務局の登記ですら、錯誤の登記は訂正できる。登記官が間違った登記をして補正することもかなりある。私は、業として登記行為をしているわけではないが、私が個人として、あるいは理事長として本人登記をしたときに登記官が間違った登記をしたことは、一度だけではない。

領収書あて先の問題は、白地の記入もあて先の訂正も領収書発行者が受取人に委任していると見るのが適当であると考える。1枚の領収書の重複使用とは全く異なることに注意しなければならない。小切手や手形のような有価証券ですら白地での発行は、有効と認められている。金額の白地は大きな危険性が伴うので、大学の法学部や商学部では有価証券の講義で、そのことを真っ先に教える。先日付や日付記入のない小切手は、呈示期間を延長する目的で実務では普通に行われている。先日付小切手でも提示されれば支払い義務があるが、引落決済日を先にしたいときに実務上良く利用されている。犯罪行為や不正行為ではない。ただし、手形のあて先は、自由には訂正できない。なぜか、それは、これから決済(支払い)が行われるからである。だから、手形では、あて先を変更する機能を制度的に定めている。それは、裏書である。

あて名の白地や訂正を、税務署での有効性に関連して議論する者がいる。専門家に多いようである。あて先自体がどのようにでも書かせられるのに、かかる議論がもっともらしくされるのが理解できない。税務署の関心は、先に指摘したようにあて先ではない。それよりも、売買の匿名確保の重要性は、内心の自由、信教の自由、政治信条の自由の確保の観点から論ずるべきであると思う。



【関連サイト】
安芸ねっと
blogナビ
BBS安芸ねっとpureland
exblog安芸ねっと(差別問題)
はてなBlog安芸ねっと(宗教問題を気ままに)
blog安芸ねっとwebry(その他のイシュー)
# by IDpureland | 2007-10-08 23:36

差別の告発

 旧臘に岸田秀先生僧侶研修会案内状「差別」文書事件(平成15年(2003年)3月12日)の告発者が判明した。児玉竹丸(浄正寺・高田北組・安芸高田市甲田町浅塚)同朋三者懇委員である。彼はどうして名乗り出なかったのであろうか。彼の真意を知りたい。
 事なかれ主義の中山知見広島別院輪番(当時)の罪は大きい。彼は、東京教務所長・築地別院副輪番(昨年(平成18年)の春まで輪番は武野以徳前総長)から昨年(平成18年)の春鹿児島別院輪番に転勤した。
 宗門の高級宗務員の任命方法を猟官制にしなければ、宗門に正義と自主は実現せず、宗門にあるのは言葉だけの欺瞞的仮装民主制にすぎない。猟官制は民主主義の基礎・根幹である。猟官制の弊害は、民主主義に本質的に内在する弊害である。民主主義を理想化し猟官制の弊害をいいつのるは、民主主義を否定したい輩であることを知らなければならない。
 民主主義は欠陥だらけであるが、私は、人間が主体的に生きる、仏教的にいえば犀の角のように一人歩む(スッタニパータ)ということは孤独で汚れてズタズタになって生きるということであると思っている。親鸞聖人の「不断煩悩得涅槃」はこのことをいっている。高級宗務員が根こそぎ交代することによって、宗門に民主主義が実現し、宗門人が真宗的人間関係をまず宗門内で実践することにより、阿弥陀如来を信ずる人が本当に自分の人生の主人となって生きる親鸞的生き方が実現する。
 今、宗門で諸悪の根源は、玉手箱と高級宗務員が生活の糧でしかないことである。



【関連サイト】
安芸ねっと
blogナビ
BBS安芸ねっとpureland
exblog安芸ねっと(差別問題)
はてなBlog安芸ねっと(宗教問題を気ままに)
blog安芸ねっとwebry(その他のイシュー)
# by IDpureland | 2007-04-24 19:43

差別……被差別部落、在日朝鮮人・韓国人、障害者、職業、右翼

 政治結社大日本清導会総本部百武次郎会長とメールのやり取りをしている。彼からの第1便へ対する私の返事を、blog安芸ねっとwebry2005/10/27にupした。「大室☆寅之助。」さんから2006/10/28にコメントしてもらっているのに今日気がついた。

「大室☆寅之助。」さんは、「靖国・国家神道とは明治期に薩長閥が作り上げた一神教の新興宗教」と指摘されているが、正鵠を射た指摘である。昔、三島由紀夫が文化防衛論を主張していた。中国共産党の文化大革命礼賛と同じく一世を風靡したが、双方ともナンセンス極まりないものであった。日教組の運動であったと思われるが、中共毛沢東の「大躍進」の映画を、小学校で生徒全員が強制的に見せられたことがある。アメリカ合衆国にたいする素朴な礼賛とともに昭和20年代から30年代は右も左も不思議な時代であった。

「大室☆寅之助。」さんに、嫌がらせを受けていると想像して応援してもらったが、私は、右からも左からも嫌がらせを受けていない。すべて「安芸ねっと」にupされると警戒されて、嫌がらせを控えているのかもしれない。私は、警察や検察に対しても挑発的と受けとられるような発言をしているが、なんらの問合せも咎めも受けていない。政治家も、国会議員・県会議員・市会議員に対して持論を述べているが、自民党・民主党・公明党・社民党・共産党の議員から嫌がらせを受けていない。

私は、宗門では、基幹運動の闘士からも、総局や龍谷大学の教授諸先生や勧学寮の和上諸先生や監正局の問合せもない。国家権力からも宗門からも右翼からも左翼からも解同からも見放されている。

百武次郎さんからも殴り込みは受けていない。メールの交換をしている。彼はなかなか真面目な人物である。

私は、日本の右翼に訊ねたい。日本の右翼は、なぜ天皇と結びつかねばならないのかと。

キリスト教の僧侶とも知り合いはある。

被差別部落の人とも、在日の人とも知り合いは多い。

中国人とも喧嘩をしている。

私は、見放されているのかも知れない。

安芸教区広陵東組寺族研修で、今夏、慶応大学商学部教授の中島隆信さんを講師にお招きした。「お寺の経済学」をお書きになっているのでお招きしたが、今年「これも経済学だ!」、「障害者の経済学」を上梓されている。

「これも経済学だ!」、「障害者の経済学」で、①金太郎飴的な報道により、テレビが公共財になっている。公共財的な性質が人工的に作り出されている。②日本社会では、弱者は単なるモラルの判定材料に過ぎない。③所得の不平等がないということは、労働者の生産性の違いが生じないような働き方をさせてきたか、あるいは生じたとしてもそれを賃金に反映させてこなかったということ。④ベッカーの差別理論をもとに、差別が存在するとすれば、競争していない業界か、あるいは社会全体に差別意識が根強く残っているケースに限られる。⑤「差別大歓迎」、「障害を売り物にする」等の肯定的紹介。に共感をもった。

お金儲けと職業の貴賎についても書こうと思ったが、長くなるので次の機会に譲りたい。


【関連サイト】
安芸ねっと
blogナビ
BBS安芸ねっとpureland
exblog安芸ねっと(差別問題)
はてなBlog安芸ねっと(宗教問題を気ままに)
blog安芸ねっとwebry(その他のイシュー)
# by IDpureland | 2006-11-22 20:09